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島根県松江市横浜町

横浜町はJR山陰本線松江駅から線路沿いに約1キロ西に位置し、松江市の旧市内にあります。

横浜と言う通り元々、宍道湖岸に町がありましたが国鉄の開通や埋め立てで今では湖岸は遠のいています。

江戸時代に、横浜町には職人が多く住みついた所から「職人町」とも呼ばれ、その団結力は今に引き継がれ鼕行列・遠足・運動会の日には老若男女多数参加しています。

 

 

 

横浜町の鼕(この項目は2008年(平成20年)2月6日発行の「横浜町今昔」より引用しました。)

横浜町の鼕の始まり

 小正月の火祭りであった左義長行事として、鼕をたたく祭りが松江の町にあった。古老によると左義長行事は、歳徳神「お額さん」、とんど宮【御輿】、「二尺鼕」が3点セットであったとういう。松江市内でとんど火祭りを行っていた町内は「二尺鼕」をたたいて練り歩いた。横浜町においても歳徳神とんど火祭りは行事は古くから行われ「二尺鼕」をたたいて練り歩いたと思われる。おそらく左義長行事は、南の横浜町、北の石橋町が松江を代表する町内として古くから伝統行事として受け継がれてきたと思われる。

 1742年【享保9年】五代藩主松平宣維の室、岩姫が京都伏見家から嫁入りしたとき松江城下の人々がこれを祝って大きな鼕をつくり、打ち鳴らしたのが始まりと伝えられている。しかし、それ以前から小正月の火祭りである左義長行事として鼕をたたく祭りが横浜町にもあったと古老より聞く。横浜町の「六尺鼕」は古老の話によれば明治35年代に広瀬町の旧広瀬藩の「六尺鼕」の売りがあり、買っておけば何かの役にたつだろうと山本氏【通称ヨネさん】が有志二人と購入していたものを何時の頃からか町内でたたくようになった。

 1904年【明治37年】横浜青年同志会が発足し、青年活動が活発化した。日本は日露戦争に突入し、出征兵士の歓送迎会や青年団活動、町内行事等もかれら横浜青年同志会が中心となり伝統行事も引き継がれていった。大正時代初期に掛けて「四尺2連鼕」を新調した。

 1915年【大正4年】大正天皇ご即位の御大典奉祝行事には、市内35か町の参加があり絢爛豪華なものであった。横浜町は、横浜青年同志会を中心に自慢の「六尺鼕」と新調した「四尺2連鼕」を連ねて、町をあげて鼕をたたき練り歩いた。
 市民のお目当ては横浜町、石橋町三区の「六尺鼕」であったようだが、各町も負けじと極秘に鼕を新調し、過去に例がない鼕行列になった。
 松江市鼕行列もこの御大典を機に現在の鼕行列の形が出来たようだ。
 また、鼕行列の他に竪町の宝船、白潟本町の曳屋台岩戸神楽、横浜町の大鯛、新地遊郭屋台等華やかな行列であった。
 横浜町の大鯛は横浜青年同志会が作成したもので、あまりにも大きくて道路を廻りきれなかったと、今でも語りぐさとなっている。この大鯛は、神谷義則氏宅の2階で作成され完成して持ち出す時に大変だったようだ。
 各町では町の入り口に御大典記念大アーチが作られ一層、御大典記念を盛り上げた。
 初代「四尺2連鼕宮」は」大工佐々木嘉太郎氏が製作した。宮屋根の彫刻鬼は【荒川亀斎三代目通称友山作】といわれ、現在横浜会館二階に保存されている。

 1928年【昭和3年】11月に行われた昭和天皇即位奉祝行事には「四尺2連鼕宮」と「六尺鼕」で石橋町から松江大橋を経て天神町まで練り歩いたが、途中松江大橋付近で大雨となり宮のない「六尺鼕」がずぶ濡れになるハプニングがあった。こういう経緯もあり「六尺鼕」の「鼕宮」は1945年【昭和20年】に宮大工来海義治氏、来海幸吉氏親子が着工、滝山木工を借りて岩井源太郎氏が組み立て1946年【昭和21年】に四つ棟、千鳥破風づくりの立派な鼕宮【鼕台】が完成した。新調した「六尺鼕宮」は1947年【昭和22年】5月3日、新憲法公布記念祝賀行事に参加し堂々と行進し他町から羨望の的となった。
 六尺鼕宮の大きさは

  高さ【縦】 長さ【横】 棟幅間 車輪間
正面 3925o 2680o 1606o 1390o
3925o 2680o 1610o 1770o

 高さ、長さは、左右同型で、どの角度からも美しい。
 この時横浜青年同志会が中心になり募金活動を行ったと古老より伝え聞く。
 これが引き金になり他町も立派な「鼕宮」を作るようになった。
 この歴史ある「六尺鼕宮」はその後、修理等行いながら威風堂々と現在に至っている。
【宮大工来海幸吉氏談】


六尺鼕宮と制作者来海幸吉氏

 「四尺2連鼕宮」は、1996年【平成8年】10月に新調された。施工は、大田市祖式町、(有)石原建築社長石原豊司、大工棟梁小笠原弘幸。

 横浜町の「六尺鼕」は市内で一番大きな鼕として誉れが高く自慢の一つである。横浜町・石橋町三区は「六尺鼕」の草分け的存在で元祖といっても過言ではない。

 現在の「六尺鼕」は1991年【平成3年】に新調され、その年の11月3日鼕行列参加がお披露目となった。また、2000年【平成12年】に鼕台の修復を来海幸吉氏により行われた。

 「旧四尺鼕」は、鼕に黒と朱の巴紋が描かれていたが永井塗物店の作である。現在、鼕宮庫内に保存されている。

 横浜町と石橋町三区は、松江市を代表する鼕の町である。

横浜町鼕委員会

 鼕委員会は、戦後1955年【昭和30年】ごろ横浜町内会の補助的な会として発足した。鼕委員会が出来るまでは、横浜青年同志会が主体となって鼕行列を初め世話を行っていたが、町内の組織化により役割分担が明確化された。
 鼕行列の参加及び準備、鼕宮庫、鼕、鼕宮等の点検管理を行っている。鼕行列参加前には鼕委員会を開催し、次のような取り決めを行っている。

 @ 準備 【看板設置、鼕組立、鼕一式点検】
 A 町内練習【場所の日程】
 B 世話役【弁当とおやつ】
 C 酒保係【車の手配と運転手、お昼の準備】
 D 法被係【子ども、婦人の法被の段取り】
 E 警備係【警棒、電池、笛、腕章】
 F 旗持ち【町旗の準備】
 G 料理【当日出発前のつまみ、直会の準備】
 H 式典の口上係
 I 当日の準備、時間割、昼食の場所、鼕行列順路

 以上のような役割分担を行い、委員会を重ねて当日を迎えている。
 町内練習は、笛及び、鼕の打ち方を古老が指導し、横浜町の伝統的笛と鼕の叩き方を守っている。練習の合間に酌み交わす酒と肴の準備は鼕委員会のご婦人方がお世話をしている。鼕宮の提灯等の飾り付けの他鼕行列運営費用の予算と決算も行っている。

横浜町の笛と鼕の打ち方

 横浜町鼕は、笛が主導で鼕が着いて行く大原流【神楽】でゆっくりと8分の12拍子で、深呼吸の間合いで打つのが特徴である。
 これは横浜町が6尺鼕の大きさにもよるが、小バチを入れずドドーンと腹の底に響き渡る勇壮な叩き方である。
 最近、他町においては、時代背景から、2分の1拍子の鼕を主導的とした打ち方の八束流が主流となっている。
 横浜町は、鼕の原点であるドドーン、ドドーンとゆっくり打つように心がけている。笛も抑揚をつけ間合いを持たせて吹くのが特徴である。

ここまで、2008年(平成20年)2月6日発行の「横浜町今昔」より引用しました。

 

 町内の明治生まれの人たちの法被

 各人が個々に思い思いの図案を入れた法被をつくり、鼕行列や祭りのときに着用していたユニークなものです。

 

横浜の鼕

 横浜町で鼕を叩くようになった年代は不明ですが、約150年前に始まっていたといわれています。

 現在、横浜町では、直径180cmの鼕を一基。直径145cmの鼕を二基保有しています。
 直径180cmの鼕は「六尺鼕」と呼ばれ、1900年頃(明治35年頃)に現在の島根県安来市広瀬町から購入して今の形になっています。直径145cmの鼕は「四尺鼕」と呼ばれています。

 また、これらの鼕を収める鼕宮を2台保有し、1台は1947年(昭和22年)に新調(2000年(平成12年)修理)された「四ッ棟千鳥唐破風造り」の鼕宮。これには六尺鼕一基が収まり、正方形の形をしてどこから見ても正面に見える風格を持っています。
 もう1台は1996年(平成8年)に新調された「入母屋唐破風造り」の鼕宮。こちらは四尺鼕二基が収まります。

 鼕行列には現在、2年位に一度のペースで参加しています。
 1989年(平成元年)以降は1989年・1990年・1992年・1993年・1996年・1997年に鼕行列に参加し、それ以降は2年に1回奇数年に参加しています。

 鼕行列に参加する年は、本番6週間前になると横笛の練習会(通称「笛の会」)が始まり、4週間前になると宍道湖畔に鼕を出しての練習(通称「湖畔練習」)が始まります。 鼕行列本番2週間前くらいになると、町内での練習が始まり本番前日まで毎日あります。横浜町の練習は真剣なときもありますが、終始和やかなムードで行われます。

横浜町の鼕行列の隊列

叩き手・笛方、叩き手・囃子方、
笛方・囃子方と兼任している人
もいます。

鼕宮自体にはブレーキはつい
ていません。必要時に鼕宮を
押えてブレーキをかけていま
す。

補足

四尺鼕宮を新調した1996年(平成8年)と翌年の1997年(平成9年)は、四尺鼕宮を先頭にして六尺鼕宮を後方にしていました。

2001年(平成13年)・2003年(平成15年)の鼕行列では六尺鼕は女性だけで叩くことになりました。2005年より男女での位置指定は無くなりました。

酒保車は1997年(平成9年)まではトラックを使用していましたが、1999年(平成11年)より動力禁止により無くなりました。2005年(平成17年)より人力屋台によって復活しました。

 

写真で見る横浜町の鼕行列の隊列

先頭から

旗持ち
引き手
六尺鼕宮
四尺鼕宮
酒保車

後方から

 

先代
四尺鼕宮

 

 

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宮大工来海幸吉氏代表作

@横浜町六尺鼕宮(左)A東本町一丁目鼕宮(右)

B横浜会館

横浜の鼕のイメージ(あくまでも私的)

 簡単に言うと、他町・団体さんの鼕は鼕鼕しているのに対し横浜町の鼕は笛笛しています。これは横浜町の笛が他の町内・団体さんに比べ笛の音が大きく鼕の大音量に対しても良く通る笛の音をしているからです。この笛笛している鼕を支えているのは、自町内での横笛制作・横笛指導体制です。

笛方の価値観(あくまでも私的)

 笛方はどこの町内・団体さんにとっても貴重な存在です。ただ、その人数によって役割も変わっていきます。

  数人・・・他所から借りて確保する場合もあります。鼕行列本番中は鼕が叩けません。ずっと笛です。練習も殆ど笛。笛方は「苦」です。

  10人前後・・・鼕行列本番中は鼕の叩きが余程上手な人でない限り鼕が叩けません。ずっと笛でちょっとだけ鼕です。練習も殆ど笛。笛方は「苦」です。

  20人前後・・・鼕行列本番中は交代で鼕が叩け休憩できます。練習も笛の人数を見ながらタイミングを見計らって鼕が叩けます(この駆け引きが楽しい)。笛方は「ら苦(楽)」です。

  笛方人数20人は「苦」の前に「ら」が付くか付かないかのボーダーラインです。「ら」が付けば「ら苦」すなわち「楽」になります。

横浜町気質(あくまでも私的)

 若手男性(概ね40代まで)

 横笛を吹かない人を探す方が早いくらい殆どの人が横笛を吹きます(上手い下手は別として)。叩き手としてデビュー当初は叩き手に専念していますが次第に横笛を覚え、吹くようになります。横笛が吹ける若手男性は鼕行列本番のときは叩きよりも横笛を主体にする人が多いです。

 女性

 横笛を吹かない人を探す方が早いくらい横笛を吹く人が多いです(上手い下手は別として)。練習のときは休憩時の酒肴の世話など裏方をこなしながら練習をしています。鼕行列本番のときは殆ど叩いているといっても過言ではないくらい鼕に一生懸命になり横浜町の叩き手の一角を占めています。

 高齢男性(70代以上)

 おもいッきりマイペース。

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