トップページ>横浜町とんどの火祭り【左義長行事】

(この項目は2008年(平成20年)2月6日発行の「横浜町今昔」より引用しました。)

歳徳神お額さん【おがきさん】と歳徳宮

 松江市内の左義長は、歳神、歳徳神または大歳神といい、五穀豊穣を司られる神として元旦から種々な行事を行い十五日にとんどの行事をおこなった。

 その間毎日鼕をたたき、また歳徳神の神輿をかついで、各町を歩いた。

 古老によると左義長行事は、歳徳神「お額さん」、とんど宮【神輿】、「二尺鼕」が組み合わせであったと云う。

 横浜町においても歳徳神とんど火祭り行事は古くから行われていたと思われる。

 江戸時代の史料には、歳徳神「お額さん」と歳徳宮「遷宮奉納札」が残っている。

 古老の語り、現在受け継がれている行事等を繋ぎ合わせ、更に松江市鼕行列保存会発行史料を参考に書いてみた。

 町内揃って正月を迎え、宮庫から歳徳宮を出し、清掃して清め、供え物をし門松を立てて注連をにたんざくをつけた。

 歳徳宮【横浜町は大宮】とお額さんは頭屋に置かれ、豊作と家内安全を祈り鼕をたたいた。歳徳宮とお額さんの飾り場所、頭屋は、2軒とした。

 町民は各家毎に供え物を持参し、歳徳宮、お額さんを参拝した。

 歳徳宮を担ぐ者は、20人以上、御神酒を頂きチョオサイ【重哉】、チョウサヤの掛け声で調子を合わせ歳徳宮を担いで練り歩いた。

 昔は、決まったコースはなく、勝手に歩き回ったので他町内と出合うと、鼕のぶちが当たった、当たらないのと喧嘩が始まった。

 横浜町では、神谷家老の紋提灯をつけて歩いた。破れると「何処の町内だ」と大小言になるため、他の町内が恐れて除けたようだ。

 古老曰く、勝ったような錯覚を起こし気分がよかった。喧嘩が強かったのは、寺町、横浜町、縄手等が強かった。寺町には、伊与屋小路に和泉屋と云う近在随一の土建屋がいた。配下のトビ職人は、腕に覚えのある者揃いで、何処の町も威勢に恐れて道を譲った。喧嘩が強かった寺町、横浜町、縄手はお互いに宿敵の中だった。本町や京店の繁華街で遭遇すると壮烈なぶつかり合いが始まったようだ。世話方と呼ぶ提灯を掲げた先頭の古老が潮時を見て仲裁に入った。この時、神谷家老の提灯をかざしこの紋所が目に入らぬかと云うことになったらしい。

 古老によると、片原町の船大工が鼕喧嘩で亡くなったことから禁止令が出た。

 その後は、各町内の中を歩くようになった。【船大工は飲み過ぎて死んだという説もある】昔から祭りに喧嘩はつきものであるが、喧嘩が無くなり面白さが半減したと云われている。

 横浜町内では、供え物が少ない家は酔狂者が歳徳宮の担ぎ棒をぶっつけて壊したと伝えられている。

 古くは若松さまを唄ったと思われるが、近年は唄い手もなく掛け声だけになっている、十五日のとんど火祭りは灘端で行ったと思われるが定かではない。当日は特に鼕を盛んにたたいた。

 子ども達は、注連縄、御神札等を集め神木の所に積み重ねる。焼いて燃え上がる火を見てドウドウとはやしたてた。【鼕と言う言葉の起源と言われる】

 餅、大根、かぶらを焼いて、その餅を食べると風邪にかからぬといい、焼き大根、かぶらは霜やけの薬にしていたようだ。

 

 歳徳宮は、古老より伝え聞くと、おそらく松江市内で一番大きいと思われる。

 【神輿は大宮、中宮、小宮とあり横浜町は大宮造り】

 昔は、とんど宮として練り歩いたと思われるが、近年では奉祝行事に持ち出されたりこどもの日に若者が担いで練り歩いた。

 最近では、横浜町祭りで繰り出されている。

(この項目は2008年(平成20年)2月6日発行の「横浜町今昔」より引用しました。)

 

 

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